会社名 | 株式会社 エイムデザインオフィス |
代表取締役 | 河内 崇 |
住所 | 〒105-0012 東京都港区芝大門2-12-6芝ハタビル202 |
連絡先 | TEL:03-5405-7778 FAX:03-5405-7779 E-Mail:info@aimdesign.co.jp |
設立 | 平成12年5月 |
資本金 | 10,000,000円 |
業務内容 | 事業企画、設計監理、店舗設計、リフォーム、仮設計画図、建築施工図 飲食業向け店舗プロデュース・経営支援 |
エイムデザインオフィスは、得意分野である設計・施工の面から、飲食業向け店舗プロデュースと経営支援をしています。世間には飲食専門の店舗プロデュースを手がける会社は、たくさんあります。ではいったい、設計・施工が本業の私たちのサービスは、飲食専門の店舗プロデュースと、どこが違うと思いますか?
それは、オープンにかかる莫大な投資費用の返済に見合う収益の回収に徹底的にこだわることができることです。驚くことに、飲食店の多くが、総席数・稼働率・客単価から導きだされる月間の売上見込みと、設計・施工にかかる費用が見合っていないものばかりなのです。だからオープンにこぎ着けても半年や一年でたたんでしまうお店が多いのです。つまり建築が本業ではない店舗プロデュースは、食事内容や店舗デザイン、サービスの開発にこだわるあまり、毎月の売上見込みでは、利益と返済のバランスが悪いことが挙げられます。
そこで私たちは、デザインコンセプトだけではなく、経営コンセプトを話し合うことに多くの時間をかけるようにしています。オーナー様のお店に注ぐ思いや情熱を、お店のデザインや見た目だけに表現するだけではなく、例えば女性に愛されるお店を目指すならば、あえてトイレを男性向けと女性向けの2つ作るような、よりコストのかかる提案をすることで、オーナー様の思いを形に変えます。
そのときは、総席数・稼働率・客単価の見込み数字の見直しに始まり、ときには出店エリアの見直しも行いながら、投資費用の返済にかかるスケジュールを提出し、どうしたらオーナー様の思いが達成できるお店作りになるのかを徹底的に話し合います。
経営コンセプトがきちんとすり合うまで、あきらめずに私たちとお付き合いいただければ、必ず、2店舗目、3店舗目とそれこそフランチャイズ化も夢ではないビジネスの広がりをご体験いただけると思っています。
ちょっとした私の「あまのじゃく」がいまの道に進むきっかけでした。
1969年、中央区京橋で建築装飾金物の制作・施工の会社を営む社長の初の男孫として、大田区の大森で生まれ育ちました。初の男孫だったのでとてもかわいがられたことを覚えています。祖父の、いまも残っている仕事としては、池袋サンシャイン60エスカレータの近くにある鳩のオブジェがあります。サンシャインにお出向きの際は、ぜひ探してみてください。
この祖父の仕事は私の父も受け継ぎ、この流れでいけば、今頃私も装飾金物に関する仕事をしていたかもしれません。幼い頃の祖父は、羽振りがよく、親戚一同で毎年、熱海の「起雲閣」に行っては、河内家が遊びにきていることを聞きつけて、いろんなお客さんが「起雲閣」に駆けつけ、宴のように盛り上がっていたことをいまでもよく思い出します。ただ時代は様変わりし、80年になると、建設業界を含め装飾金物の業界にも不況が訪れました。
ときをほぼ同じくし、祖父は体調を崩しました。引き継いだ父は、独りでがんばりましたが、とても独りでこなせるような仕事ではなく、借金が重なり会社をたたみ、大森の母の実家が営んでいたアパートに住んでいた私たちの家族のもとに祖父母が京橋から引っ越してきました。
借金を背負い、店をたたんで再起を図ろうとしたとき、父はがんを告知されました。82年の当時は告知の時代ではありませんでしたが、胃がんの治療で有名な病院にたまたま診察をしてもらっていたこともあり、先生から直々に告知を受けました。相当ショックを受けたことを覚えていますが、その病院を知る方々からは口々に「それなら、間違いなく治りますよ!」と言われました。告知は、治せるという先生の自信の現れだったということでした。
すぐに手術を受け、見事に働けるまでに快復しました。が、告知を受けた父にしてみたら相当不安だったんじゃないでしょうか。闘病から復帰したあと、なかなか仕事がうまくいかずに、知り合いのところで働くこともありましたが、長続きはしなかった。父の仕事がうまくいかない、そんな中学生時代でしたので、ろくに勉強もせず、自分には合わない高校に進学し、アルバイトの毎日でした。ときには電話が止められ、電話が開通すると借金取りからの催促。そのうち両親は離婚することになりました。
高校3年。87年の12月。振り返ればバブル景気に突入していました。私たち家族が住んでいたアパートの敷地が好景気で高くなり、その土地を売却して財産分与をして、横浜の鶴見に家を建てました。
これは、私自身の転機になったと思っています。
そもそも幼い頃から親しんできた金物装飾の仕事は、建設に非常に近いものでした。そして自分の家が建って行く姿を見たり図面を見たり、設計事務所の人と話したりするのは楽しく、父の弟が設計士だったこともあり、進路について考え始めていた私にとって、設計の仕事が魅力的に見えました。
そんなときに父から言われた一言が思い出に残っています。
「お前は、海外に行ってこい!」
実は小学生のころ、祖父実家の1階にあった工場のエリアを一部改築して、母が喫茶店を5年くらいやっていました。もちろん2階で仕事をしている父もたまに手伝いをしていたし、私も夏休みは一日1000円でお手伝いしていた。そのときの私の接客の様子をみていて、父なりに息子の将来を考えてくれたんでしょうね。父は、私をホテルマンにしたいといいだしたんです。
私の中学の同級生が当時留学をしていて、その両親と父とが仲が良く、現地の滞在先やチケットまできちんと用意していた。あまのじゃくな私はそんな引かれたレールを嫌い、設計の専門学校に進学することを決断しました。
専門学校に入ってみると、建築とは美術だと言う意識があり、集まる生徒も目的意識も高く、サラブレッドも多かった。でも、そこで私はこう考えた。
「これじゃ、世の中には、通用しないのではないか?」
いまにしてみたら、建築は美術だといい、集まる学生たちの考えていることも多少理解できるのですが、私たちが目にする建築や、自分の家を建てたときの感覚とはまるで違う世界に驚いたのは事実です。
90年。当時はバブルまっさかりでしたので就職に苦労することなく清水建設に入社しました。ゼネコンに入社したのは、専門学校で驚いたことへの自分への答えを探すために「現場」に身を置いてみたいという理由からです。設計の専門学校で、描く理想の設計が、本当に現場で実現できるものなのかを知りたかったからです。ここにも私のあまのじゃくぶりが現れています。笑
清水建設で現場を4年ほど、4つのプロジェクトを経験しました。そして3つ目のプロジェクトで、いまでも仕事で付き合いのある尊敬できる先輩たちと仕事ができたことで、「10年後20年後、自分はこうなりたい、こういう仕事が先輩のようにこなせるようになりたい」と、自分の将来が見つかりました。
そして、将来の独立を見据えて、設計図ではないですが、より現場に近い施工図を専門とする会社に転職し、CADを学び、2000年5月に「株式会社エイムデザインオフィス」を独立開業しました。
いまでは、祖父も父も他界してしまいましたが、親の働く背中をみて育てたことが、いまの私のキャリアにきちんと生きている気がします。そうでなければ、自分にふさわしい仕事である店舗設計、店舗プロデュース、建築の仕事には、きっとたどり着かなかったと思います。
そしてあまのじゃくだからこそ、店舗プロデュースの仕事に新しい視点を持ち込み、繁盛店になるような設計から施工を含めた総合プロデュースが、エイムデザインオフィス一社のワンストップで提供できると思っています。
興味がございましたら、ぜひ、お問い合わせください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。